第4章 自然への眼差し

大谷笙紅は自然を題材に多くの作品を制作しているが、その趣は一般的な風景画作品と一線を画す。それは、大谷が自然界と人間界を異なるものとして区別せず、その境界を融解させた絵画空間を創造しているからに他ならない。自然に対する畏敬の念が投影された《青山聳天表》《いのちを活きる》。富士山に父母のイメージを重ねた《夕暮れの富士》。鳥や動物を擬人化し、雄弁に語らせている《いい日旅立ち》《静閑》《柿の里 》。心象風景画とでも呼びたい《桜河静凛》《静かな朝》《静澄の時》。画家自身が文字通り自然と一体となって描いているからこそ、その画面には画家の「気」が漲る。

桜河静凛

満開の桜並木は川辺に沿って霞棚引く彼方まで永遠に続くようだ。人の姿はなく、 数頭の馬の姿だけが描かれていることが本作の神秘性を一層際立たせている。 邪な煩悩を抱いた人間は立ち入ることができないこの静謐な空間には、 神々の庭園の如き霊的な気配が漂う。

いい日旅立ち

釧路湿原の霧の中で躍動する丹頂鶴の姿が描かれた本作は、 屏風作品としては二作目だったという大谷氏初期の作品である。「描きたい」という画家の衝動は、歓喜の鳴き声をあげて羽を広げる鶴たちの 姿に投影され、端正でありながらリズミカルな画面が生まれた。

青山聳天表

雲南省を旅して以来、抱き続けてきた高山に対する憧れが形になった本作には間近に聳えるタムセルク山と、エベレスト街道を家畜と共に登る人々の姿が描かれる。人として、画家としての理想は雄大な山の姿に、頂に至る険しい道程は民の姿に投影される。

静かな朝

画中に足を踏み入れたとき、 観者の心は俗世界を離れ、静けさで満たされるであろう。ここには桃源郷の如き安らかさがある。他の大谷作品にも共通して言えることだが、画家の「気」が作品の隅々にまで漲り、その「気」が凛とした雰囲気を醸し出している。

いのちを活きる

一本の大樹に、絶え間なく循環する自然の姿、 宇宙の縮図をも見出した作品。人もまた自然の一部として生かされているのだという喜びを溌剌と謳い上げている。その波動は歓喜の光となって樹上より降り注ぎ、幹に芽吹く新しい命や、観者の心にも活力を与える。

静閑

朝霧に霞む御堂を背にし、一頭の鹿がじっとこちらを見据えている。静寂の中に佇むこの鹿が見ているのは、観者である私たちの姿ではなく、私たちの心なのであろう。「この鹿は、神の使いなのかもしれない」とまで想像させるところは、まさに墨相画の真骨頂である。

夕暮れの富士

富士山を巡る旅に出た画家だが、 あまりに立派なその姿にはよそよそしさを感じ、心が動かなかったと言う。だが、夕暮れ時に旅館の窓から見た富士山には、「この懐に飛び込んで来なさい」と語りかけてくる父母の様な親近感を覚えた。その心に全てを委ねて描いた作品。

清澄の時

大谷氏の作品にはしばしば馬の姿が描かれる。 氏には自然界の魂と心を通わせる才能があるのだろう。躍動する馬たちの無垢な塊と画家の塊が共鳴し、歓喜の波となって緑の草原を駆け抜けていく。大谷氏は無駄を排した表現で“清澄の時”を瑞々しく画面に定着された。

柿の里

深まりゆく里山の秋の様子が詩情豊かに描かれている。「ここしかない」という絶妙な構図で、じっと前方を見据え、何かを見守るかの様に描かれた一羽の鴉には、田舎の人々の素朴な営みへの深い共感が投影されている。日本の原風景の一つがここにある。

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