第1章 竹取物語シリーズ
「実在」と「存在」
風景に溶け込む十一面観世音菩薩像。「神仏の世界は別世界のことだと一般的に考えられているが、実は身の周りに神仏は”実在”する。それに気がつけば、みな心安らかに生きることができるということを絵画で表現したかった」と画家は語る。大谷芸術の神髄とも言うべき作品。
大谷笙紅は人間として「心の平安」を求め、画家としてその心を表現し続けてきた。大谷は心の平安を得るためには、己の心の中に真理を見出さねばならないと自覚し、絵画技術の向上に努めながら精神面の鍛錬を重ねた画家である。その葛藤や超克は率直に作品に反映されているため、大谷作品の変遷を鑑賞することは、すなわち画家の心の道程を辿ることを意味する。苦しいときに制作した 《一意専心》《天相》や、新たな目覚めと自由への欲求を表現した《目覚めの龍》 《創化の兆し》などを経て、自身の 宇宙観を存分に表現するに至った近作《「実 在」と「存在」》まで、個々の作品には画家の実直な人物像も透けて見える。
風景に溶け込む十一面観世音菩薩像。「神仏の世界は別世界のことだと一般的に考えられているが、実は身の周りに神仏は”実在”する。それに気がつけば、みな心安らかに生きることができるということを絵画で表現したかった」と画家は語る。大谷芸術の神髄とも言うべき作品。
真理追求のため自己鍛錬を続けてきた画家は、己の姿を山々に溶け込ませるように描いた。その飾らない自画像は、画家本人を知る者たちを唸らせたに違いない。「大いなる宇宙と一つになり、心の安らぎを得たい」という画家の願いが実現された、墨相画ならではの世界である。
天に教えを求めながら、精神的葛藤を乗り越え、泰然自若たる境地へと辿り着きたいという画家の思いが、国宝である阿修羅像の姿に投影されている。生きているかの如く存在豊かに描かれた大谷氏の阿修羅像は、対峙する観者たちにも何かを問いかけてくる様だ。
砂漠の大画廊と評される敦煌・莫高窟の中でも、文豪・井上靖が「恋人」と呼んだ盛唐を代表する45窟の塑像を描いた快作である。「心の中の宇宙が共鳴するのを感じた」という画家は、画中に自らの姿を描き込むことで、”慈光”に輝く菩薩と一体となった。
現実の生活に疲れた時、現実の自分からすーっと抜け出します。すると呼吸が静かになり、木々が風に揺れる音だけが聞こえてきます。静寂の中の心安らかな一刻です」と画家は語る。画中、庭園の池を見つめて佇む女性は画家本人であり、その静寂の境地が作品に結実した。
骨折入院後に描いた《 創化の兆し》と同じ年に制作した作品。「精神的に変化があり、新しく目覚めた気持ちになっていた」と画家が語る通り、”目覚めの龍”が月から飛び出すが如くしなやかに描かれており、その姿は師匠からの精神的な巣立ちを暗示する。
画家が足を骨折し、入院した際の思い出から生まれた作品である。空を舞う女性の姿が星々の煌めく夜空に溶け込むように描かれ、画面上方には患者の心を映す「円窓 」のごとき月が 輝く 。「心のままに羽ばたきたい」という自由への欲求が、想像力豊かな表現に結実した。
新宿御苑を散策した際、一本の大樹に心惹かれた画家は、「この木を登って平和な世界に行きたい」と夢想し、自身の姿を画面に描きいれた。大きな日輪は平和な世界の象徴だという。「心の中の宇宙を表す絵」という墨相画の概念を初めて本格的に表現した作品。
岩の上に佇む二人は日常から解放され 、 まばゆい陽の光を、清々しい潮風を、反復する波の音を全身で感じ、至福の、そして永遠の“一刻”を享受している。懸命に働く時があるからこそ、報われる癒しの時もあるのだということを俯瞰的視座で幸福感豊かに表現している。
大谷氏の人生に於いて精神的にも肉体的にも苦しいときに制作された《天相》と対になる作品。空は暗く海も荒れる中、岩山の上に忽然と立つ灯台を目指して岩場を登る人々。その情景には当時の画家自身の生きる姿、苦境を乗り越えようとする意志が投影されている。
大谷氏の人生に於いて精神的にも肉体的にも 苦しいときに制作された《一意専心》と対になる作品 。「ひたすらに一つの道を歩んでいけば“天相”の世界に辿り着けるという思いで描いた」と氏は語る。神仏の姿と現実の風景とが共存する画面に氏の宇宙観が表現された。
高野山霊宝館に収蔵される国宝・八大童子像の中の一つ、制多迦童子像の面相に魅せられて画いた作品。「地球を救う守り神」としてこの像を描きたかったと語る画家は、使命感に燃えるオーラを身にまとい、地球の上に仁王立ちをする躍動的な制多迦童子像を創造した。
Copyright © Shoko Otani