2025年12月7日発売のバイリンガル美術情報誌『ONBEAT vol.23 Premium』で、第五作の完成をもって完結した「空蝉物語」シリーズをご紹介いただきました。
自身の集大成「空蝉物語」シリーズが完結
画家・大谷笙紅は2019年より、 それまでの肩書「墨相画家」を改め「天相画家」として活動している。ちなみに「天相画」とは人間の心と天の意思とが和合した大谷笙紅ならではの絵画芸術である。大谷は天相画の世界観を絵画を通して人々に伝え、心の豊かさを共有したいという思いと、未来を担う若者たちが成長するための一助となりたいという思いを心に抱いており、それが天相画家としての現在の活動の基礎となっている。いつの頃からか、肉食系、草食系という言葉が使われるようになったように、物質的なものよりも精神的な豊かさを重視する人々を「天相系」と呼ぶような時代となることを願う大谷にとって何より大切な使命は、自身の絵で目に見えない精神の世界、「天相」という概念を伝えることである。 時に優れた作品は、作家の死後も時代を超えて作家の思いを雄弁に語り続けるからだ。そこで大谷が自身の集大成として取り組んだのが、天相系の若者が精神的に成長していく過程を描く「空蝉物語」シリーズの制作である。全五作で完結させるという構想のもと、本シリーズを描き進めてきた画家が、ついに今年の春(5月)、シリーズを完結させた。ここでは改めて「空蝉物語」シリーズの全作品を振り返るとともに最新作を紹介したいと思う。

シリーズ第一作となった「空蝉物語そのI〈羽化〉」では、 志ある「天相系」の若者が困難な時代の希望となるべく、いま世の中に飛び立とうとする姿を、長く地中で過ごした蝉の幼虫が成虫へと羽化した場面に重ねて描いた。それは蝉、つまり若者が、自分に養分を与え続けた存在(大樹)から飛び立つ前の最後の瞬間だといえるが、そこには、若者を支える樹木でありたいと願う画家の思いや、天相画家として産声を上げたばかりの自身の心象も投影されている。「成長」や「飛躍」というテーマを、比喩の力によって魅力的な寓話として成立させた本作は、本シリーズの第一作として完璧なものであったと改めて思う。

続くシリーズ第二作の「空蝉物語 そのII 《見跡》」 について、作家は以下のような「蝉と観音さまの会話」をコメントとして寄せている。「僕、羽化したばかりの蝉です。 殻を脱いで、やっと出てきたら、空気は澱んでいて、暗くて何も見えないんだ。それでもここまで飛んできたら、やっと気持が楽になったよ。 だけど…これからどうしたらいいの?」「ここまでたどり着いて、おめでとう。さあ、いろいろ経験していらっしゃい。 何事も誠実に一生懸命にね。 私がいつも見守っていますから。」 本作に描かれた観音さまは、 本当にこんな言葉を掛けてくれそうな慈悲深い姿で画中に佇んでいる。 大谷の高い技術と、 地に足の着いた人柄が、 そのファンタジックな設定を荒唐無稽なものにせずに「天相画」として成立させているのである。 なお、作品の題名は、 中国 北宋時代の禅師・廓庵が、 禅の悟りに至る道筋を 「自分とは何か」を探し求める旅の物語絵として示した 「十牛図」の第二図 「見跡」に由来する。

「空蝉物語そのⅢ《尋ねゆく日本の心》」 と題されたシリーズ第三作には、民族衣装をまとったアイヌの若い女性が民族楽器のトンコリを携えて森の中に佇む姿が描かれている。以下は本作に対する作家のコメントである。 「不安を感じさせる色調や金属音があふれるこの世界の中で、 澄んだ日本の心は何処に? フェイクのない世界は何処に?」「日本の心」を考えるとき、万物に神が宿ると考える日本古来の神道や自然崇拝 (アニミズム)の源流は縄文時代にまでさかのぼる。 そしてその縄文文化を色濃く受け継いでいるといわれるのがアイヌ文化である。大谷は現代の日本人が失いつつある自然に対する畏敬の念を、皮肉にもかつての幕府や日本政府が弾圧したアイヌの民の中に見たのであろう。旧世代の過ちを乗り越えていくためには、つまらぬ拘りを捨てなければならない。大谷が描いたアイヌの女性は屹然とした眼差しで真実を見据え、日本人が進むべき道を指し示しているかのようである。女性の背景には木にとまる一匹の蝉が描かれており、この作品が第一作《羽化》から続く若者の成長物語であることを暗示している。

シリーズ第四作は「空蝉物語 そのⅣ 《化身》」と題して発表された。画家はシリーズの第一作で 「未来への希望」を羽化した蝉の姿として象徴的に描いた。 そして、その蝉は本作において志ある 「天相系」の青年として成長した姿で現れた。大谷は大きく羽を広げた蝉の姿と若者の姿を重ねることで、 青年の成長ぶりを一目で伝える絶妙な構図を生んだ。真正面から捉えたこの構図の大胆さと潔さからは、青年に対する大谷の期待が真っ直ぐに伝わってくる。 画中に描かれた山中の寺院は、若者が目指す精神的な高みを暗示する。 夜空に浮かぶ満月は若者を見守り支えたいと願う画家の姿を象徴するかのようだ。

そして本シリーズの完結作が「空蝉物語 そのⅤ 《天相の木》」である。シリーズ中初めてタイトルに「天相」の言葉が入った本作は、前作までは若者たちの成長に目が向けられていたのに対し、人類全体の未来へとその視野が拡大している。そこには大谷の人生観、世界観、宇宙観までもが投影されており、「天相」の世界、つまり天の意志と和合する精神を求める者と、そうでない者が辿る道を寓話的に描いている。画面上部右側には「こちらに来なさい」と微笑む菩薩の如き存在が描かれており、「天相」の精神を理解する者は心身ともに軽くなり、宙を舞うように画面上方の平安の世界へと向かっている。その対極にあるのが画面左下に描かれた争い合う人々である。そんな人生を送った人々は画面上方の光の世界には行けず、画面左端の暗い世界を彷徨うしかないのだと大谷は語る。残念ながら現在私たちが暮らす現代社会では、世界の至るところで絶えず争いが起き、平安の世界とは程遠い状況である。それでも、そんな争いに満ちた世界を抜け出そうと努力する人々や、子どもたちを守り導こうとする人々は存在する。画面下段から中段にかけては、そうした人々の様子を確認することができる。しかし、画家はこうした世界の状況をただ俯瞰的に描写しているのではない。この世界に精神性を重んじる「天相」の種を蒔き、「天相の木」という希望を育てたいと願い、画面中央に据えたのだ。作家のこのポジティブなイメージこそが、全体的に暗めのトーンで厳しい現実を描くこの作品にバランスをもたらしているのだ。「救いとは何か」を問うているという意味では、ミケランジェロがシスティーナ礼拝堂の祭壇に描いた《最後の審判》などと同様のテーマを扱った作品なのだといえよう。

大谷笙紅(中央)を挟んで、奈良県広陵町・前町長の山村吉由氏(右)、同教育委員会教育長の植村佳央氏(左)。「空蝉物語」シリーズが並んだ大谷家の陳列ケースの前で。大谷笙紅は自身の「竹取物語」シリーズを、「かぐや姫の里」奈良県広陵町に寄贈している。
こうして完結した「空蝉物語」シリーズは、連作として一貫した流れを保持しつつも、一作一作が完全に独立した作品であるという点において、シリーズとして理想的な形で構成されている。筆者はこの「空蝉物語」シリーズが内包するメッセージが、言葉や国境、時代を超えて人々に伝わり、心の豊かさを追及する天相的な社会の実現に寄与することを、作家と共に心から祈念している。
文=藤田博孝(ONBEAT編集長)、 撮影:尾原久永